萩の偉人たち |
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
全長51mもある厚狭毛利家の屋敷。
一重入母屋造りで瓦葺き。萩城跡のそばにある。
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益田家老物見矢倉
毛利家の家老を務めた益田家は外堀の北総門に
あることから敵の動きをいち早く知る役目をしていた。
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松下村塾
吉田松陰がこの場所で武士・町人を問わず学問を
教えたところ。門下生には高杉晋作・久坂玄瑞・
前原一誠などがいる。実質は1年ぐらいしか教え
ていなかった。松陰は29歳で没している。
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「親思う心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくら
ん」 (子が親を思うよりも親が子を思う気持の方が
強い。今の自分を見たら親はどれだけ悲しむだろう)
安政の大獄で幽閉された松陰の句である。
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桂太郎旧宅
明治の頃の総理大臣の家。藍場川のそばにある。
現在も子孫が住んでいる。
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桂太郎旧宅の庭
庭には小さい池があり、縁側の端に手洗いがある
が、水を流すと水琴窟で水音がきれいな音を出す。
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桂太郎旧宅の庭木
手入れされた庭木は、大木のりっぱな木に成長し
ていた。
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伊藤博文旧宅
萱葺きの家。博文の両親はこの家で下働きをして
いた。親子ともども伊藤家の養子となって明治2年
までこの家で暮らした。
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田中義一総理大臣の旧居跡
昭和2年ごろの総理大臣。父は菊屋家の近くのこの
場所で車夫をしていた。
今は木と碑が建っているだけ。
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周布家長屋門
周布政之助の本家。出窓に金具が使われている。
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高杉晋作生誕地
菊屋横丁にある。明倫館や吉田松陰の松下村塾に
も通った。高杉は29歳で亡くなった。
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木戸孝允旧宅
旧名が桂小五郎で維新の際に西郷隆盛らと活躍し
た。医師の家である。通り側に木戸孝允の碑があり、
公園側には桂小五郎の碑がある。
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藍場川 |
藍場川
今は澄んだ水に鯉が泳いでいる。
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藍場川
一段下のところは洗い場である。野菜や洗濯、食
器なども洗った。
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藍場川
人工的に作られた細い川で、この川の水を下級
武士の町では日常用水として使われた。
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屋敷の中から
藍場川の水を家の中からも使えるように、階段を設
けあった。すぐ脇にかまどや風呂が設けられている。
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菊屋住宅 |
菊屋横丁
菊屋家の裏の方である。なまこ壁が美しい。 |
菊家横丁
長いなまこ壁が続く。屋敷の広さが伺える。 |
菊屋家住宅
通り側の表玄関側。豪商のうちである。
江戸からの使いは萩城には泊まらず、この家で面
談をしたという。 |
菊屋家住宅
白壁からつづいてこちらもずっと続いている。
西日本最大の豪商といわれる。 |
土塀や町並み |
土塀と古い建物がマッチして散策にはいいところ
である。一昔前にタイムスリップした感じさえする。
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刈り込まれた樹木と板塀と白壁がきれいな家。
どなたのお宅かわかりませんが、維持費が大変
でしょう。
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繁沢石見守長屋門
長い家である。穴のあいた部分から人が出入りし
ていた。
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菊屋住宅近くの長屋
戦災に遭わなかった萩には昔の建物が多く残って
いる。
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木戸孝允宅の外の通り。
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白壁が並ぶ住宅街。
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昔のままという感じの土塀。
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問田益田家土塀
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鍵曲がりの側の石塀
夏みかんは藩士の窮状を救う為、明治維新に城下
に1万本が植えられた。ダイダイとも言われ、青い
実と黄色い実とが一緒に実ることから子孫繁栄の
意味にも例えられ珍重されている。
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萩博物館を建設中。
平成16年に萩博が行なわれる予定で、急ピッチで
建設されていた。
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松陰神社
明治23年に建立された。吉田松陰の教えは、幕
末や維新に活躍した若者を多く輩出した
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しっかりした門構えの家。そのままの状態で残って
いるのがいい。
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泊まったホテル。
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明倫館
藩校で、現在は明倫小学校となっている。後ろ側に
も同じ建物が並び、相当大きな建物である。
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窓の外は浜辺と海だった。
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